続・六畳間奮闘記

男には自分の世界がある。例えるなら空をかける、ひとすじの流れ星

俺は乗るぜ、このビックウェーブに!

 最近、新しいマイブームの波が来てます。それはーーーヴィトゲンシュタイン

  この人はイギリスの言語哲学者で、以後の言語・分析哲学の分野に多大な影響を与えたとされている人です。「人は語り得ぬものについて沈黙しなければならない」は、この人が言った有名な言葉です。ですが、僕これについては無知なので沈黙します・・・

 この人の言葉で一番好きなのが、「私の言葉の限界は、私の世界の限界である」です。ちなみに、ヴィトさんの本を実際に読んだわけではないので以下は自分がそう感じた、という話になります。

 まず、自分の世界ってなんだろう?僕はこう考えています。自分が知っている、認識ではなく知覚している世界。海外に行ったことのない自分にとっては、ハワイとはあくまで雑誌やテレビの映像から想像したイメージであって、自分が見て感じたハワイ島そのものを指す言葉ではない。これが、僕が持つハワイという言葉に含まれる意味の限界。これを、ヴィトさんは世界の限界だと言っていたんですね~。言葉が世界を記述するものであるならば、その限界は世界の限界であるということなのかなー、と、考えているの楽しい

 ところで、僕の大好きな書籍である図書館の魔女には、こんな場面があります。
ーーー文字を知らない少年が字の練習をしているのですが、いったいどこから文字は言葉になるのでしょう?「そら」という言葉があります。「そ」単体では何の意味もありませんが、「ら」の音をゆっくりと発音すると、いつの間にか「そら」という言葉になっている。どこかに明確な境界があるのだろうか?ここに言葉の正体があるような気がして、少年は繰り返し一つの言葉をいろんな方法で発音してみるわけです。ーーー
 ここは読んでいる時に僕も不思議に思ったので頭に残っていたんですが、まさかヴィトさんが解決してくれるとは!

 曰く、言葉の本質は「使う(use)」にあるそうです。先の例だと「そら」という文字と、頭に中にある意味としての「そら」を分けると考えやすい。私たちはモノに文字という記号をふって、脳内の意味とつなげています。モノと意味を記号が結ぶから、文字や音が言葉として成立する。だからこそ、記号を使うことが言葉の本質であるとヴィトさんは言っているわけです。

 これは同時に言葉の不安定さ、あいまいさも示しています。「そら」という単語に結び付ける意味は、人によって夕焼けだったり青空だったりと違ってくるからです。一見私たちが共通の認識だと思っているものも、実は少しずつ違っている。数字の1が1であるのは、その概念を共通教育として教えることでこの認識の差異を極小しているからなのです。「赤」についても、画材の絵の具がなければどうでしょう。それは夕焼けや花の色だったりするのでしょうか?

 こう考えると、会話というのは案外互いの世界同士のぶつかり合いなのかもしれませんね。イメージは、問題なければ通り過ぎ、異なれば衝突や齟齬が生じる銀河同士の衝突です。
 まさか図書館の魔女がヴィトゲンシュタインとつながるとは思ってもみませんでした。いや、同じ言葉を題材としているという点では必然を感じなくもありませんが(笑)こんなふうにマツリカは本と本を繋げて頭の中に図書館作ってるのかな~、と思ったりしたのが、年末に読んだ哲学小説なのでした(シュレディンガーの哲学する猫 )



(文が堅苦しくなならなかったことをねがう・・・)