続・六畳間奮闘記

男には自分の世界がある。例えるなら空をかける、ひとすじの流れ星

運命を論じてみる

「運命の出会い」は本当にあるのでしょうか?

僕と型月の出会いは運命的であったと思うし、書店の店頭で図書館の魔女に出会ったときには運命を感じました。それが初めから決まっていたことだとは思いませんが、必然であったとは思います。そんな運命をロマンチックに感じるために、ここに「運命論」を論じてみたいと思います。

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僕は、運命とは選択と決断の累積であると考えています。運命は過去に向けて使う言葉であり、未来を示す言葉ではないからです。よくいう「これが運命」「運命の出会い」「運命を感じた」、これらの言葉は、’今の時点'から'過去'に起こった出来事を振り返り、運命と'解釈'しているわけです。

であるならば、運命の実体は、その結果を生むに至った「決断と選択の結果」にあると言えるのではないでしょうか。'今'の選択が点になり、選択の連続が'過去'の軌跡となって'未来'に至る。自分の行動を自分で決断するからこそ、それが生むであろう未来を定めとして受け入れられるのです。逆に選択を他者に依存するのであれば、それも一つの選択といえるし、それを意識的に行わないことは自分の運命を手放す行為といえるのではないでしょうか。

進むも運命、引くも運命。きっと大穴馬券が当たった日には、朝の歯磨きから便所まで、すべからく運命の輪でからめとられてモーニングルーティンの仲間入りです。競馬したことないけど…

つまるところ、自分が運命と思えばそれが運命であり、引き寄せたいのであれば自分が動くしかないということです。運命が過去にあるならば、相応の今を積み重ね、いつか来る"必然"を待つ。だからこそ、運命の出会いとは美しいのではないでしょうか。運命であるからではなく、それを運命と感じられるから美しいのです。

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やばい。俺は釈迦にでもなっちまったのだろうか…