続・六畳間奮闘記

男には自分の世界がある。例えるなら空をかける、ひとすじの流れ星

どうして働かないといけないの?

 

ーどうして働かなければならないのか?-

大学4年の就活を始める前くらいか…ふと、考えてしまったことがある。自分の人生、働く選択肢しかないのか?いや、そもそも働くとは何なのだろうか?一時期、寝る前は羊を数える代わりにこのことを考えていた。

 

まず、分析をするにあたり比較対象を想定した。1.働いていない学生  2.働く社会人 3.働く原始人。3は、「働く」ということは共同体の活動に貢献することで報酬としての賃金を得ているのだ…という考えのもと、共同体の規模についての比較例として採用した。

 

2と3の比較

共に、1日を働くことに費やす両者。しかし、働くことで得られるものには大きな違いがある。原始人は日々の糧を得るために働く。火を起こすために薪を集め、川に水を汲みに行き、獣を狩る。

現代人は働くことでお金を稼ぐ。自分に与えられた仕事の「役割」を果たし、手に入れたお金を使って、スーパーで食品を買って、ガスコンロで火をおこし、食事をする。

何が違うのか。原始人が得ているものは自分の行動によって得られたものだけなのに対し、現代人は自分の役割を果たすことで「お金」、つまり、共同体が生み出したものを享受する権利を得ている。

一人で生きることを仮定した場合、1日のうちにとれる行動の選択肢は多くない。しかし、共同体に属していると、そこで生み出された事物、知識、その他多くのものを得ることができる。働くことで、1日を生存以外のことにも使えるようになる。

これはとても不思議なことだと思った。同じように働いているのに、共同体で役割分担をしていると、手に入るものが違ってくる。これは、個人個人の能力によるものだけでなく、「時間」を味方にできることが大きいのだろうと思った。そう、人類の歴史からくる生産力を享受しているのである。

 

1と2の比較

では、そんな中でなぜ俺たちは働かなくて良いのだろうか?(なぜ生産に寄与しなくてもよいのか)。きっとこの期間は、共同体からの投資であり、原始人な「ヒト」を、共同体の中の「人」に変えるプロセスなのだ。すなわち、これまで培ってきた知識や歴史を学ぶことで、働くことで生産できるものをより高次なものへ高めている最中なのである。なぜそれが可能なのか?それは消費者をそれだけの期間養うことのできる社会基盤を人類が築いてきたからなのである。

 

よって、僕はここに2者択一を迫られる。絶海の孤島で文明から離れて暮らすか、いずこかの共同体に属して働くのか。おいしいものを食べ、生命の安全が保障された環境で過ごすには、もう後者しかない。ましてや、義務教育を終え、20年もの消費生活を送ってきた僕には、そもそも働かないという選択肢が存在していない。

 

ーーーだから僕は、こうして、働かなければならないのであった・・・。

 

まあ、働くといっても、基本お金が手に入る行動であればどんなことでもそれは仕事であり、共同体への貢献だ。その点において自由度があるのは、やはり人類の歴史からくる「妙」であると思う。