続・六畳間奮闘記

男には自分の世界がある。例えるなら空をかける、ひとすじの流れ星

認識の差異

 ふと、こう思うときがある。「俺は神様に愛されているのかもしれない(無信教なのに)」と。
 
 例えば保育園の時だ。俺は砂場の英雄だった。なぜなら、光輝く泥団子を作り出すことに成功したのが俺だけだったからだ。それも、金色だけではない。黒色に黄土色、果てはピンク色…は色塗りしたやつか。ともかく、俺は三色のピカピカ泥団子により砂場を支配していた。より大きく、より硬くを目指していた当時の同期生たちにはその発想の差も相まってまぶしく見えたことだろう。おそらく全世界の砂場を見守る地母神あたりが気を利かせてくれていたのだ。うれしい限りである。
 
 例えば微分積分学Ⅱの再履修の再テストをやっている時だ。俺は確かに感じた、自分の数学力の高まりを。うすうす、自分に数学的センスがあることは感じ取っていたが、まさかあの問題が解けるほどとは思ってもいなかった。その時の俺は悩んでいた。どうしても答えが無限大に発散してしまうのだ。なぜ、なぜ?何度やり直しても解は無限大。そんな時だ、神様の声が聞こえたのは。「ラグラジアンをつけ忘れておるぞ」、と。そこからの俺は、まさしく神がかっていた。次から次へと問題を解いて見直しをした。そうしてすべての問題を解き終わったとき、確信したのだ。俺には数学の神、おそらくジョン・フォン・ノイマンあたりが神格を得てついているのだと。俺の可能性も無限大だったのだと!
 
 尚、このことはここだけの秘密だ。俺はカルトの長には興味ないし、神の声に関してはカンニングとして見られる可能性がある。もっとも、俺の数学力なら再が何個ついていようとも問題はないがな・・・